徳の起源 マット・リドレー

ほぼメモ

 

第5章 pp. 154あたりから

食べ物の互酬関係を類人猿まで関係付けられる利他性として理解している。特に肉。『経済の文化人類学』、『食べる人類史』あたりと対象とする行為を共有するが、見る側面が異なる。視点の差による解釈の違いが面白い

第七章 pp.205-

そういうタイトルの本だが、ヒトの脳には契約違反を理解する能力が備わっているという説が面白い。述語論理が入っているかあやしいが、一定の文脈なら判断できるらしい。脳科学に初めて関心が湧いた

pp. 213 この本では「合理主義」を囚人のジレンマにおいてナッシュ均衡に陥る論理の意味で使っていることに気付いた。相手とのやりとり、感情(というより心理的な相手の印象?)を無視して、利益を最大化することだけを考える思考。アダム・スミスのいう利己性と同じか。アマルティア・セン曰く長期的な利益を見逃す「愚かな合理主義者」

第9章

「協力的な社会であればあるほど、集団間の争いは激しくなる、というのは進化の規則であり、人間もその例外ではない」という絶望的な結論でこの章は締め括られる。もしくは「アリやシロアリはホッブズ主義的戦いを放棄したのではなく、ただ戦いを個体間ではなく集団間のレベルで続けているだけなのである」。この意味では地球上に統一国家を成立させることすら根本的な解決ではなく、外部に生命を発見した途端に惑星間の争いが発生することが示唆される。そもそも内部に一切サブ集団を持たないとは思えないのでなんら解決には繋がらない。集団間の争いを何かしらの方法で回避する必要がある。
という面について、おそらく次の章で議論する

第10章
そんなにされなかった。リカードを引用して集団間の分業における利益と、有史以前の実例を紹介しておわり。集団間の交易がホッブズ的自然状態に比べて生存確率を上げるため、後者が淘汰されて交易する集団が生き残る…くらいは論じられるのかと思った。

第11、12章
この本の終盤はコモンズの悲劇に割かれた。例えば川の水、獲物などの資源共有に失敗する原因として国家権力が中途半端に共有を制度化することを挙げる。使用量の増加に伴う限界費用が十分に増加しない(利益を上回らない)と、「合理的な」各人はより多くの水を田圃に引き、より多くの家畜を牧草地に放つ。これを制限する制度・罰則がなければ誰もが回復できる以上の資源を乱獲し共有地を損なうナッシュ均衡に陥る。

この解決策として第12章で被験者の間に相談する機会を与えるだけで囚人のジレンマから脱することができる、つまり罰則がなくとも利用者間のコミュニケーションが機能すればコモンズの悲劇を回避しうる、という実験結果が紹介される。

というわけで、第13章の題は「信頼」である。前の方(どこか忘れた)で触れられたように、囚人のジレンマゲームは集団内で繰り返す場合、適度に相手を信頼しやられたらやり返す戦略が相手を裏切り続ける(「合理的」な)戦略に対して優位であり、信頼のやり取りが集団の生存に有利であることが示唆される※ただし、この手のトイモデルがどこまで現実を反映しうるのかはわたしには確信できない。示唆することはできるかもしれないが、どれだけ信頼できる根拠なのか。ホッブズはこの裏切り戦略、つまり「合理的」な自然状態を防ぐためには権力と暴力が一体化した専制君主制が必要であると主張した。もちろん著者は専制君主など必要なく、人間には協力して信頼通貨をやり取りし、人に倫理的に正しいことを要求する本能が備わっていると主張する。この本能を上手く機能させるべく地方分権を提案し、宇沢弘文あたりと同じ結論。