最近観た映画たちーパシフィック・リム、リズと青い鳥ー

 今月後半は比較的時間を取れたのと、単純に観たい映画が溜まっていたので映画館通いをしていました。どうにも文章が進みまないのですがとりあえず表題の2作の感想を書いてみました。

パシフィック・リム

 全体的に監督が日本のアニメ好きなのが伝わる描写が多くて製作楽しかっただろうなぁというのが観終えた時の第一印象でした。

 そういえば前作は二人で操縦するというイエーガーの特性もあってパイロットたち&司令&研究者たちがストーリーの中核にいて、イエーガーの建造・整備はあまり触れられていなかったかもしれないなぁそう思うと巨大兵器で大勝利を収めたのちに量産(+無人)化を盛り込んだのは視野を大きく変更させることで観る側を飽きさせないという効果もあるのかもしれない。

 そう思って観ているとイエーガー同士で戦い始め、第13使徒というワードが浮かぶ展開が始まりー「あれ、これはもしかして日本の怪獣作品だけでなくロボット作品へのオマージュをこれでもかと盛り込んだ作品なのでは?」と、気づく。

 最後の巨大な怪獣との戦闘シーンでは前作のパワフルではあるが重さを感じる動きに比べて軽やかに飛ぶわ跳ねるわ鞭を振るうわで、歴代ガンダムたちが序盤から終盤に向かうにつれてものすごく動きがよくなっていくのを想起しました。パイロット自身も前作と異なり動きの自由度が上がっていて、2作目らしく技術の進歩を感じさせる描写が多かったように思います*1。単純にイエーガーたちがスリムになったのも良いですね。文脈は変わりますが前任のパイロットの大半が敵の襲撃によって死亡し、訓練兵たちが搭乗していることもそうさせた要因かもしれません。武器も宇宙世紀作品で見たような気がするものが多々ありました。操縦席が180度回転する機体を無理にでもこじつけるならリボーンズガンダムか。そして突然ユニコーンの立像とAnaheim Electronics

 最後の社長が格好良くて、かつ丁度グラハムがR4に乗っているという設定が公開された頃だったので出てきただけでもテンションが上がりました。

 -という具合に感想を書いていると一々何かを引用したくなる、日本のアニメの文脈を大量につぎ込んだ映画でした。最後3作目をほのめかしているので期待。

 

 どうでも良いことですが”rare-earth element”を”レアアース要素”と誤訳した字幕と、説明なくいつの間にか莫大な溶岩を露出していることになってしまった富士山に覚えた違和感をどうしてくれようか。

リズと青い鳥

 一々声に出さずに髪に触れる手や脚の動きによる感情表現が美しい-というのはもう言い尽くされてしまいました。『涼宮ハルヒの消失』でキョンが元の世界に戻ろうと決意したシーンの「消失世界の長門」を作品全体に出したらこうなるのだろうかなんて思いましたがそう言えば製作元が同じですね。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』といい最近の京アニは感情表現が豊かかつ繊細で目が離せない作品が続いていて楽しませて頂いています。*2

 冒頭に希美の足音が聞こえるシーンが事実上物語の始まりでBGMもそのタイミングで入るように、足音に対するこだわりがあるという指摘はTwitterでも既に見ましたが、歩く動作全般を気にしているような気もします。冒頭の音楽室に向かうシーンでは希美はリズミカルに上下左右に重心が動いていたり、踊り場や音楽室に入る直前にターンを入れたりと趣味:ダンスを反映した動きを持つ一方で、みぞれはほとんど重心が動かず、やはり内気な性格を反映した歩き方をしています。

 これが終盤みぞれが一人で音楽室に向かうシーンでは重心が動くようになった上に曲がり角でクルッとターンを入れるようになっている。みぞれ・希美とリズ・青い鳥の対応が入れ替わることで終盤に入ることを踏まえると、あの歩き方の変化は自分が現場から飛び立つことのできる青い鳥であることを自覚したことを、それまで青い鳥だと認識していた希美の動きによって表現しているように思います。

 歩いているシーンでもう一つ、特に序盤の希美で一番目立つのですがあのスカートの動きは柔らかくかつ軽やかでとても佳いですね。私は全く観ていないのですが『ユーフォニアム』からキャラクターデザインが大きく変更されているようなので同時に変更が加えられたか…と思い、HPから確認すると確かにスカートの丈も違うので正しそうです。みぞれの眼も印象がかなり変わってますねぇ。ここまでデザインが違うと繋がった作品として『ユーフォニアム』を観るのは難しそうです。

 

 ところで童話『リズと青い鳥』の方のシーンは料理、人名、風景から多分スウェーデンゴットランド島がモデルではないかと思っているのですが、公式設定集で言及はあるんでしょうか。Aaltのパン屋はBäckereiだったのでドイツ語ですが白樺も亜寒帯の印象が強いけれども地域を限定する材料にはなりそうにない。*3あのあたり、だけで充分か。

*1:パンフレットによると主役兼プロデューサーのJohn Boiegaの提案で今作のイエーガーたちの動きに進撃の巨人的な要素を取り入れたようです。こちらは別の”イエーガー

*2:境界の彼方』の時はここまでの印象を受けなかったような私の感受性の問題か。それでもOP含めて好きです。

*3:強いて言うならばフィンランドの事実上の国の木として扱われているそうです

日本神話の源流 吉田敦彦

 折角有言実行から始めたブログなのでこれを旨としたいと思います。きっと余裕さえあれば週1くらいで何か書けるだろう。そう思っていたので締切も乗り越えた今日書きました。Descartesは…気が向いたら続きます。

 この本は講談社学術文庫だから多分1年くらい前に大学の書籍部で面陳列されているところを見つけて購入したような…刷られた時期(17年7月)からも正しそうには思える。というのも、去年末に一度半分くらい読んだところであろうことか無くしてしまって最近Amazonで再購入したので、本棚のどこに置いてあったかもわからなくて*1

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%95%A6%E5%BD%A6/dp/4061598201/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1526216216&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81

 内容は比較神話学で、タイトル通り日本神話の成立を主題として、類似した神話を比較して共通項を見つけ出すことでその源を推測した研究成果です。ギルガメッシュを召喚できれば調査することもなく証拠を物で出してくれるだろうに。日本の場合は歴史時代が古墳時代から少なくとも1700年程度あって、記紀神話から数えても1300年分の蓄積があるので、四大文明ほどではないにせよ比較することで神話の類似だけでなく民族移動についてもいくらかわかることがありそうなわけです。

 まず先行研究として、先史時代においても日本は

  1. 千島、サハリンを経由して北アジアの森林地帯
  2. 朝鮮半島を経由してユーラシアステップ地帯
  3. 中国中南部ー東南アジアーインドのモンスーン地帯
  4. 台湾、フィリピンからオセアニアまで

の幅広い民族と交流があったことが定説のようです*2。言語の面からもアルタイ語族オーストロネシア語族の影響が示唆されるのだとか。その結果、

  1. 母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
  2. 母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
  3. 父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
  4. 男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁撈民文化
  5. 父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化

の少なくとも5種類の異なる文化の流入があった可能性が岡正雄氏によって指摘されているらしい。この仮説の正しさはともかく、語彙や道具、建造物など現代にも残った証拠から複数の集団が日本に渡ってきていることは確からしい。

 複数の民族が日本列島という一つの領域に定着したからには、その民族たちが持っていた伝承・伝説が混交した結果として現在知られている日本の神話が存在するはずで、さらにその根拠はそれぞれの民族の母集団から分布していった他の集団が残した伝承との比較から明らかにされるはず、というのがこの本の主題です。

 

 実は読みながら思っていたことは大半が第5章「ギリシア、スキュタイとの比較」で紹介されてしまったので感心する他ないのですが、例えばイザナギは死後冥界の住人となったイザナミを取り戻しに行くも、イザナギは既に冥界の食べ物を口にしたため現世には戻れず、イザナミが冥界の主に交渉しようとしたにも関わらずイザナギが腐ったイザナミの姿を見てしまったことで彼女の逆鱗に触れ、結局イザナミは冥界に落ち着いた、という話がありますが、マオリの神話にも妻を冥界から連れ戻そうとするも失敗する神話が存在するそうです。…オルフェウスとエウリュディケ、さらにペルセポネの神話と似てますよね*3ユーラシア大陸の東西の端で同じような冥界の神話が見つかり、さらに著者曰く夫の失敗で妻が戻れなくなる神話は旧大陸にはこの2つしか見つからないので、この類似は偶然ではないのではないか。

 ー2章と5章の内容を単純に並べるとぱっと見似ている部分を継ぎ接ぎしているだけなのか正鵠を射る意見なのかわからなくなりました。一応ポリネシアの神話について冥界下りだけでなく2章で島釣り、国生み、4章でヒルコと、イザナギイザナミに関連する複数の類似を指摘することで主張を補強しているようでもありますが、著者としては冥界下りはポリネシアよりもギリシアの神話との類似が本質的だと考えているようです。何よりもギリシアではエウリュディケとペルセポネに分かたれてはいても、冥界の支配者が元は地上の神だったという点も共通している。その他オオゲツヒメ、ウミサチ・ヤマサチとコノハナサクヤヒメ、天の岩戸などの神話が東南アジア、中国南東部の神話との間に多くの類似を持ち、アマテラスとスサノオの誓約から生まれた三女神*4デメテルがポセイドンに孕まされた子供にも類似を見出しーー列挙に特に意味はないのでこのあたりでやめます。記紀神話の時代に既に広範な神話が混合しているようです。上に挙げた他にはスキュタイ、オセット人、そして勿論韓国の神話との関連が見つかるのだとか。

 日ユ同祖とまで言い始めると証拠が怪しいので疑いの目を向けざるを得ませんが、歴史時代の始まりからユーラシア中のかなり広い範囲で民族同士の交流があったことは立証されていると思って良さそうです。そういえばJared Diamondもそんなことを言っていましたっけ。

 神話そのものの経時変化を追えればまた新しいアプローチが可能になりそうですが、それには『過ぎ去りし日々の光』のワームカムが必要だ。

*1:読む前の本は購入順、読んだ本は読んだ順に並べてあるのでいつもは大体わかる

*2:素人目線でも3.がなければモンスーン地帯で生じた稲作が弥生時代の日本に伝わらないことはわかる

*3:ペルセポネの神話についてはJ. G. Frazer 『金枝篇』が参考になります

*4:ちなみに名前はタキリヒメ、タギツヒメイチキシマヒメです。最近どこかで聞いたような…

『方法序説』 René Descartes 1

 

とりあえず今週中にでも一回今読んでいる本について何か書いてみる予定です

— ぐぬ (@gnunununu) 2018年5月1日

宣言通り今読んでいる本について少し書いてみます。今回触れるのは表題の通りDescartesの『方法序説ほか』(中公クラシックス)です。中公クラシックスは新書サイズで厚めなので若干重いのですが、注釈が巻末ではなく章毎についているのと紙の質感が好きです。

方法序説ほか (中公クラシックス)

方法序説ほか (中公クラシックス)

 

 記憶が正しければ1年くらい前に購入して、2週間程前に読み始めました。きっかけは7年来の友人と会った時に「『神学大全』の神の存在証明について読んでみたけど、証明する前に例えば神の完全性が仮定されていて一神教の主張を再確認しているだけに思える」というようなことを言ったところ、Descartesも同じようなことをしているし神の存在証明は大体そんなものだ、と返ってきたことでした。その後ググってみると有名なJe ponse, donc je suis (我思う故に我あり)はこの本にあるということで早速大学書籍部で購入してしばらく本棚で寝ていました。

  さて実際に読んでみると、

哲学については次のことだけ言っておこう。それが幾代もの間に現われた、最も優れた精神をもつ人々によって研究されてきたにもかかわらず、いまだに、論争の余地のない、したがって疑いを入れる余地のないような事がらが、何一つ哲学には存しないのを見て、私は自分がほかの人々よりもうまくやれるなどという自負心をもちえなかったということ。そして同一の問題については、真実な意見は一つしかありえないはずであるのに、事実はまことに多くのちがった意見が行われ、それがそれぞれ学識ある人々によって主張されているのを見て、私は、真実らしくあるにすぎぬ事がらのすべてを、ほとんど偽なるものとみなしたということ。(pp. 11)

 なるほど真実であるということ、疑いようのない、ということを重要視しているらしいということが10ページも読まないうちにわかります。

次に、その他の学問についていえば、それらは原理を哲学から借りているのであるから、あのようにあやふやな基礎の上には堅固な建物が建てられうるはずはない、と判断した。(pp. 11)

と、当時の(数学を除いた)学問全般に対して手厳しい。ただ、その後の本人の文章からも読み取れるように当時の哲学を記述する言語は幾何学の言葉に比べてはるかに厳密性を欠いているのは確かです(その後の時代の哲学がどうなのかはよく知らないのでなんとも言えません)。ただ、ストア派の著作を”砂と泥との上に建てられたにすぎぬ、きわめて豪奢な壮麗な宮殿に例えていた”(pp. 10)と言う割に神の存在証明についてはAquinasと同じような表現を使っているのは如何なものか…(後述)

 さて、哲学の作る基礎を疑った結果、Decartesは何を信じているのかというと、"真なるものを偽なるものから分かつところの能力”(pp. 3)であり、それを良識または理性と呼ぶことにして、”全ての人において生まれつき相等しい”(pp. 3)のだと。必ずしも真偽を分かつことが可能なのかと言う疑問は置いておくとして、神が存在するから正しさが存在するとは書かずに人間には等しく正しさを見極める能力を持っている、としているのはルネサンス以降で可能になった思想でしょう*1。この序文と関連して”明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものをも真として受け入れない”(pp. 22)という規則が重要であると認識したようです*2

 そうするといかなるものをも"明証的に真である"かどうか、ひとまず疑わなければならないので何を思考の土台にすべきかという問題が生じてしまう。結果、

そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、全ては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」Je ponse, donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によっても揺り動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(pp. 41)

  私は以前卒論が行き詰まって、うまくいかない原因を色々と疑わなければならない状況に置かれたことがあるのですが、ふと地下鉄を降りて地上に出る階段を登っている時にこの感覚がふと浮かんできて納得すると同時に安心したのを覚えています*3。当時何がどう間違って予想した結果が出なかったのかは未だにわからないのですが、Decartesが言うように実験結果の正しさはともかく、私が存在することは確からしいのでいつか解決したいところです。

 

 基礎的な論証を1つだけ得たので次に、Je ponse, donc je suis以外の命題が真であることを示す手段を得る必要がある訳ですが、"「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものは全て真である」ということを一般的規則として認めてよい"(pp. 43)のだそうです。これが正しいのか私には判断しかねます。”きわめて明晰に判明に理解”することができると仮定するのは良いのだろうか。

 

 ここから神の存在証明に入っていくのですが、力尽きたので次回に回します。そもそも"明晰に判明に理解"できていないので調べているうちに労力が発散しそうなので適当なところで満足しなければ…

 

*1:ただし例えばpp. 35などを見るとやはり神に与えられたと考えていることがわかる

*2:この規則は4つ挙げられているうちの1つ目

*3:しかし最近水槽の中の脳という思考実験のことを思い出して安心から引きずり出されてしまいました

作ってみました

 昨日の夜思いつきでこんなツイートをしていたわけですが、今日いま一つ作業の調子が悪くて早めに帰ってきた結果、若干時間ができてしまったのでとりあえず作りました。おそらくわざわざアクセスしてくれるフォロワーの方々はおおよそ納得してもらえると思うのですが、内容がどうなるのかは私自身わかりません。これまで3ヶ月以上続いたことのない日記の代わりに本やら映画やらの感想を吐き出す場所になるのではないかと思います。…今回はプラチナの古典インクまで購入したのになぁ(休日にお勉強するときに活躍してくれています)

 一応諸事情によりhtmlの文法についてはゼロではない知識があるのでもしかしたらhtmlのお勉強をする場所にもなるかもしれません。そのくらいの軽い気持ちで140字には収まらない何かしらの思考をここで文章にしてみようと思います。ペンで書くよりも速いので。

よろしくお願いします。

 

…ところで改行で0.5行1行程度のブランクができる仕様は読みやすくて良いですね。