『方法序説』 René Descartes 1

 

とりあえず今週中にでも一回今読んでいる本について何か書いてみる予定です

— ぐぬ (@gnunununu) 2018年5月1日

宣言通り今読んでいる本について少し書いてみます。今回触れるのは表題の通りDescartesの『方法序説ほか』(中公クラシックス)です。中公クラシックスは新書サイズで厚めなので若干重いのですが、注釈が巻末ではなく章毎についているのと紙の質感が好きです。

方法序説ほか (中公クラシックス)

方法序説ほか (中公クラシックス)

 

 記憶が正しければ1年くらい前に購入して、2週間程前に読み始めました。きっかけは7年来の友人と会った時に「『神学大全』の神の存在証明について読んでみたけど、証明する前に例えば神の完全性が仮定されていて一神教の主張を再確認しているだけに思える」というようなことを言ったところ、Descartesも同じようなことをしているし神の存在証明は大体そんなものだ、と返ってきたことでした。その後ググってみると有名なJe ponse, donc je suis (我思う故に我あり)はこの本にあるということで早速大学書籍部で購入してしばらく本棚で寝ていました。

  さて実際に読んでみると、

哲学については次のことだけ言っておこう。それが幾代もの間に現われた、最も優れた精神をもつ人々によって研究されてきたにもかかわらず、いまだに、論争の余地のない、したがって疑いを入れる余地のないような事がらが、何一つ哲学には存しないのを見て、私は自分がほかの人々よりもうまくやれるなどという自負心をもちえなかったということ。そして同一の問題については、真実な意見は一つしかありえないはずであるのに、事実はまことに多くのちがった意見が行われ、それがそれぞれ学識ある人々によって主張されているのを見て、私は、真実らしくあるにすぎぬ事がらのすべてを、ほとんど偽なるものとみなしたということ。(pp. 11)

 なるほど真実であるということ、疑いようのない、ということを重要視しているらしいということが10ページも読まないうちにわかります。

次に、その他の学問についていえば、それらは原理を哲学から借りているのであるから、あのようにあやふやな基礎の上には堅固な建物が建てられうるはずはない、と判断した。(pp. 11)

と、当時の(数学を除いた)学問全般に対して手厳しい。ただ、その後の本人の文章からも読み取れるように当時の哲学を記述する言語は幾何学の言葉に比べてはるかに厳密性を欠いているのは確かです(その後の時代の哲学がどうなのかはよく知らないのでなんとも言えません)。ただ、ストア派の著作を”砂と泥との上に建てられたにすぎぬ、きわめて豪奢な壮麗な宮殿に例えていた”(pp. 10)と言う割に神の存在証明についてはAquinasと同じような表現を使っているのは如何なものか…(後述)

 さて、哲学の作る基礎を疑った結果、Decartesは何を信じているのかというと、"真なるものを偽なるものから分かつところの能力”(pp. 3)であり、それを良識または理性と呼ぶことにして、”全ての人において生まれつき相等しい”(pp. 3)のだと。必ずしも真偽を分かつことが可能なのかと言う疑問は置いておくとして、神が存在するから正しさが存在するとは書かずに人間には等しく正しさを見極める能力を持っている、としているのはルネサンス以降で可能になった思想でしょう*1。この序文と関連して”明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものをも真として受け入れない”(pp. 22)という規則が重要であると認識したようです*2

 そうするといかなるものをも"明証的に真である"かどうか、ひとまず疑わなければならないので何を思考の土台にすべきかという問題が生じてしまう。結果、

そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、全ては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」Je ponse, donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によっても揺り動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(pp. 41)

  私は以前卒論が行き詰まって、うまくいかない原因を色々と疑わなければならない状況に置かれたことがあるのですが、ふと地下鉄を降りて地上に出る階段を登っている時にこの感覚がふと浮かんできて納得すると同時に安心したのを覚えています*3。当時何がどう間違って予想した結果が出なかったのかは未だにわからないのですが、Decartesが言うように実験結果の正しさはともかく、私が存在することは確からしいのでいつか解決したいところです。

 

 基礎的な論証を1つだけ得たので次に、Je ponse, donc je suis以外の命題が真であることを示す手段を得る必要がある訳ですが、"「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものは全て真である」ということを一般的規則として認めてよい"(pp. 43)のだそうです。これが正しいのか私には判断しかねます。”きわめて明晰に判明に理解”することができると仮定するのは良いのだろうか。

 

 ここから神の存在証明に入っていくのですが、力尽きたので次回に回します。そもそも"明晰に判明に理解"できていないので調べているうちに労力が発散しそうなので適当なところで満足しなければ…

 

*1:ただし例えばpp. 35などを見るとやはり神に与えられたと考えていることがわかる

*2:この規則は4つ挙げられているうちの1つ目

*3:しかし最近水槽の中の脳という思考実験のことを思い出して安心から引きずり出されてしまいました